関西大学 森部豊教授 -時代の変化が人々の生活や行動に与えた影響とは?-

関西大学 森部豊教授に独自インタビュー

歴史学を学ぶことは、その国の文化や生活に対する理解を深めるために重要な要素の一つです。しかし、「歴史学はなんだか難しそう」と敬遠している方も多いのではないでしょうか。

そこでこの記事では、関西大学の森部豊教授に時代の変化が人々の生活や行動に与えた影響や、歴史を学ぶ面白さなどについてお話を伺いました。

独自インタビューにご協力いただいた方
森部豊教授

関西大学 文学部
森部 豊(もりべ ゆたか)教授

関西大学文学部総合人文学科世界史専修教授。

1991年、愛知大学文学部史学科を卒業後、同年に筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科に入学。1994年、北京大学歴史系に高級進修生として霞山会より派遣留学。2000年に筑波大学大学院博士課程歴史・人類学研究科単位取得の上退学。

2001年より筑波大学歴史・人類学系文部科学技官を務める。2004年、「唐五代時期の華北における北方系所属と華北藩鎮」にて博士(筑波大学)を取得。2005年より現職。

専門は東洋史。近著として、『唐―東ユーラシアの大帝国』(中央公論新社、2023年)、「契丹国の建国と東ユーラシア史の新展開」(『ユーラシア 東西ふたつの帝国』、集英社、2023年)など。

目次

研究内容と印象深いエピソード

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:まず初めに、森部様が現在研究されているテーマや研究を始めたきっかけをお聞きしたいです。

森部教授:中国の歴史の中でも古い時代、7世紀から10世紀はじめにかけて存在した唐という国を対象に研究しています。日本の歴史でいうと、飛鳥文化が栄えていた時代から平安時代の前期半ば、弘仁・貞観文化が栄えた少し後までの時代に相当します。

唐の王朝の研究といえば、一般には政治制度や社会経済の仕組み、あるいは唐詩をはじめとする文化などを研究するイメージがあるかもしれませんが、私は唐の周辺にいたエスニック集団(民族)がどのように唐(中国)と関わっていたのか、あるいは唐(中国)がどのように外部の人々と接触していたのかを研究しています。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:具体的にはどのような研究をされているのでしょうか?

森部教授:元々は、唐の中に入り込んだ外国人のうち、ソグド人について研究していました。ソグド人というのは、今の中央アジアにあるウズベキスタン東部に住んでいたイラン系の人たちです。ウズベキスタンというと、今でこそイスラームのカラーが強く、トルコ語系のウズベク語を使用していますが、1000年以上前のウズベキスタンはイラン系の言語を話す人々が住む地でした。

その地が「ソグディアナ」と呼ばれていたことから、彼らは「ソグド人」と呼ばれています。ソグド人はとりわけ、シルクロードの交易に従事する国際商人として有名です。

中国にやってきたソグド人は、絹織物などを売買する商人としてはもちろん、中国に住み続けて軍人や政治家として活躍する人物も現れます。唐で活躍した日本人として、阿倍仲麻呂のような例がありますが、ソグド人はそれよりももっと広範囲に、数多くの人が唐で活動していていました。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:現代の中国も様々な民族が入り混じって構成されていますよね。

森部教授:そうですね。私の研究に即して言いますと、ソグド人の研究だけでなく、他のエスニック集団にも着目するようになりました。特に注目したのが、「契丹」という人々です。

唐が滅んだ後、中国では宋という王朝が生まれました。その当時、中国の東北部では様々なエスニック集団が住んでいたのですが、その中で契丹人という騎馬遊牧民が部族統一をなしとげ、中国王朝に対抗できる「契丹国(遼)」という国を作り上げたのです。

その契丹人ですが、実は唐の時代から活動し始めていて、はじめは唐に服属する形をとっていました。その唐代の契丹人たちの史料(墓誌)が発見されたことを知り、「面白そうだな」と思って契丹について研究するようになったのです。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:確かに、史料から様々な繋がりが見えてくるのはとても面白そうです。

森部教授:すると今度は、「唐朝は契丹の人々をどのように支配していたのか」という点に関心が移っていきました。我々研究者の従来の定説としては、唐朝は周辺のエスニック集団の首領に唐朝の地方長官の官職を与え、その集団を間接統治するというものでした。

ところが、契丹人の史料が出てきて、その分析を進めると、この見方が変わってきました。史料は墓誌という墓の中に死者とともに埋葬された石板で、その人が生前何をしていたかが記されているものです。

それを分析すると、唐朝は間接統治と言いながら、契丹人集団を支配するための役所に、唐朝の官僚を送り込んでいたことが分かったのです。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:すごく大きな発見ですね!

森部教授:その研究がひと段落したので、今度はベトナムのハノイ近郊で20世紀後半に発見された青銅の梵鐘について調べてみようと思い立ちました。梵鐘には、これを造るためにお金を出した人々の名前が刻まれていることが判明していました。

そこに彫られていた名前は、唐王朝がベトナム北部を支配するための役所である安南都護府の役人の肩書を持つ人や、間接統治(羈縻支配)のために置かれた州の長官、さらに唐王朝の軍人の肩書を持つ人たちも含まれていました。その人名の中には、ベトナム現地の人たちが名乗る特別な姓があることが分かりました。

ただ、日本で見ることできる史料は、他の研究者がその梵鐘の銘文の拓本を見て、文字に書き起こしたものだったので、自分の目でよく調べるために、実際にベトナムへ調査に行ってきたのです。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:ベトナムに行かれていたんですね!調査の中で印象的だったエピソードなどがあれば教えていただけますか?

森部教授:そうですね。研究面で言うと、拓本で読めない文字が結構読めたことです。元々多くの先生方が文字に起こしてはいたのですが、今回の調査を通じ、より正確なテキストを作れるようになりました。

また、今回の調査は私一人ではなく、関西大学の歴史を専門とする先生方と研究班を作って調査してきました。私の研究対象の唐代の梵鐘の他、ベトナム歴代王朝の碑文やベトナムの陶磁器などもあわせて調査しただけでなく、日本では体験できない食事をしたという面でも印象的でした。

例えば、先生方はそれぞれ専門分野が異なり、いろいろな碑文を見ることに情熱を注がれる先生もいれば、食文化にもすごく関心がある先生がいました。そのため、様々な料理を食べようということになり、その一環として私たちも一緒にネットで変わったベトナム料理を探して食べに行ったのですが、蛇料理やヤギ料理はかなり衝撃的でしたね。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:蛇料理やヤギ料理は人生で触れる機会がほぼないですよね!実際に現地の文化に触れられるのは歴史や文化について学ばれている方ならではだと思います。

今はベトナムでのエピソードについてお話しいただきましたが、これまで研究されてきた中で一番印象的だったエピソードはありますか?

森部教授:直接、唐の歴史の研究と関わるものではないものではないのですが、やはり食の違いが印象的でした。

例えば、トルコ語系のウイグル族が住む中国の一番西の方にある新疆ウイグル自治区に調査で赴いた時、羊の串焼き(羊肉串ヤンロウチュアン)を食べたことがあります。羊肉串は中国の北部では、たいがい食べられる料理ですが、中国の一番東の方にある北京などでは、羊肉の大きさが小指の先くらいしかないんです。

一方、西へ行けば行くほど羊肉は大きくなっていき、中央アジアに行くとゴルフボール大ほどの肉の塊を食べるようになっていきます。なぜ肉の大きさが変わるのかは分かりませんが、それを初めて食べたときはすごくカルチャーショックを感じましたね。

他にも、中国の北辺に内モンゴル自治区があり、そこにはモンゴル族が住んでいて、ここでは茹でた羊肉を食べる習慣があります。

現在、内モンゴルの赤峰という場所で、中国の考古学者たちが契丹国(遼)の都の遺跡を発掘しています。私たちも、コロナウイルスが流行する以前、2回ほど、中国の東北部の調査に行くときに立ち寄って挨拶しに行ってました。

すると、現地の地方政府の方が日本人の学術団体が来るからということで、羊を一匹プレゼントしてくれました。それを中国発掘隊の人たちが捌いて、歓迎の宴を開いてくれるんです。

そういう羊を丸ごと調理したものは、中々日本では食べられません。現地のいろんな食文化に触れられるのは、調査に行く楽しみの一つですね。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:今お話を伺っただけでも楽しそうだと思いましたが、現地で実際に見ることでまた違った感動を得られそうですね!

時代の変化が人々の生活や行動に与えた影響とは

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:人々の生活や行動と時代の変化の関係性は非常に深いものだと思っています。実際、森部様が研究されている中で時代の変化と生活への影響という事例はあるのでしょうか?

森部教授:私が研究している唐王朝は290年間続いています。その唐が建国した時(618年)と滅んだ時(907年)では、時代がガラッと変わっていました。

元々中国はいつも変化している国なのですが、たまにものすごく大きな断絶のような変化が現れます。唐という王朝はちょうどその節目に当たる時期なのです。

唐が建国してから150年ほど経った755年に安禄山という人が反乱を起こします。この安禄山は外国人で、ソグド人とトルコ人の血をひいていました。外国人でありながら異例の出世を遂げて、今の北京にあった軍団の長官となった人です。

安禄山の反乱によって唐朝は大きなダメージを受けましたが、その後も唐朝はおよそ150年生き続けることができました。なぜそんなことができたのかというと、制度を大きく変えることができたからです。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:制度の変革というと、具体的にどんなことをしたのでしょうか?

森部教授:戦争によって中央政府の財政が非常に困窮する中で、新しく財政を立て直すためには税収の確保、すなわち穀物の徴収が必要です。しかし、農民も困窮し、農地も荒れ果てている状態では穀物を徴収し、それを都まで運搬することもままなりません。

その時、唐の中央政府が目を付けたのが塩だったのです。中国は非常に国土の広い国ですが、海岸線は国土に比べると短いです。すると、塩が取れるポイントというのはある程度決まってきます。

そこを政府が管理すれば塩の生産から販売までをコントロールしやすくなるんです。それをきっかけにして、中国では塩の専売制が始まりました。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:専売制というと日本でも似たようなことがありましたよね。

森部教授:そうですね。唐の塩の専売制というのは、生産された塩を特定の商人に売り渡すところから始まります。現代に例えていいますと、今まで100gの塩を100円で売っていたとします。唐朝は専売制にし、そこに1,000円の消費税を課し、100gの塩を1,100円で商人に卸すのです。商人は利益を得るために1,100円に上乗せした代金で塩を売りさばいていきます。

その時、中央政府は塩100gに対して1,000円の税収が得られるのです。こうして得られた塩税は、当初、国家財政の収入于の半分をしめるまでになったといいます。この収入を利用し、唐朝は江南の物資を都のある北中国へ運び込むための労働力を雇ったわけです。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:そういった塩の専売制ができたことで、社会にはどのような影響があったのでしょうか?

森部教授:塩の商人たちはいわゆる特権商人です。つまり、彼らは巨額な利益をあげることができる立場にあるんですよね。すると、唐王朝もしだいにその塩商人たちを規制して、彼らからお金を取ろうとするようになります。

しかし、商人もずる賢い人が多いので、塩を買う時に現金ではないもので支払おうとします。例えて言えば、ある壺を持って行って、「この壺は1万円の価値があります」と言って塩の代金とするんです。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:何だか詐欺と分かりそうな気もしますが、役人側はそれで大丈夫なのでしょうか?

森部教授:はい、役人側もそれで良いんです。塩が生産できる場所は一か所ではなく、あちこちに複数あり、それぞれに役所が置かれ、役人が常駐しているわけです。役人は自分がどれだけ塩を売れたのかが実績になるので、なるべく多くの塩商人に来てもらい、塩を購入してもらいたいわけです。そのため、実際にお金を払われなくても大丈夫だったのです。

すると、帳面上では1万円分の塩が売れたことになっているのに、実際には壺しかないという事態になるわけです。つまり、唐朝の中央政府からすると実収入が減っていることになります。

帳面を確認すると10万円売れているはずなのに、実際の現金は1万円しか来ていない。残りはどうなったか役人に確認すると、お金ではない奢侈品などがゴロゴロしている、ということになります。

当然、中央政府は取り締まりを始めて塩商人に対する規制を厳しくします。すると、今まで特権だった商人の中でも落ちぶれる人が出てきますよね。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:確かにそうですよね。そこで終わりというわけにもいかないのでしょうか?

森部教授:そうですね。落ちぶれても彼らは塩を扱っていることには変わりません。また、塩を扱っている同士のネットワーク情報網もすでに出来上がっています。

そうすると、彼らは横流しされた塩や、あるいは他の塩商人から暴力をもって塩を強奪し、それを通常よりも安い値段で庶民に売るようになるのです。この場合、横流ししている人間の間だけでお金が回るようになり、国には一銭も入らなくなります。

もちろん、唐朝はそういった闇の塩(私塩という)を扱う者たちに対してますます厳しい取り締まりを行います。しかし、そういった人たちは相互にネットワークでつながっていて、政府の動きを察すると、その情報を流して、みんな逃げていくので、イタチごっこになってしまうのです。

しかし、やがて追い詰められた私塩商人たちは、「このままだったら自滅するから思い切って立ち上がろう」と考えて反乱を起こします。この時、塩商人の専売によって高い塩を買わされていた農民や庶民たちも当然「何でこんな生活をしなければならないんだ」という不満が爆発するのです。

そうすると、一斉に反乱に参加する人が増えて、唐朝が滅ぶきっかけとなっていきました。塩の専売が、安史の乱で弱体化した唐の命脈を延ばしたことは事実ですが、その一方、塩の専売から生まれた塩商人の末裔がおこした反乱によって、滅んだというわけです。ただし、この制度は、この後の中国王朝にもひきつがれ、お金によって人を雇うという新しい局面を生み出したことは間違いありません。

これが中国の歴史が大きく変化した一つの側面ということができます。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:安禄山の反乱をきっかけに様々な変化が起きたんですね!

森部教授:そうですね。安禄山という人間が反乱を起こしたことが、直接社会が変化する原因になったとは言えませんが、それによって社会の仕組みが変わっていったことは確かです。

例えば、唐の前半までは貴族と言われる人々が政治を牛耳っていました。中国の貴族は日本の貴族と少し違っていて、社会的な名声が出来上がっている家柄に生まれたら、例え能力が無くても出世できるという仕組みになっていました。つまり、有名な家柄に生まれなければどんな才能があっても這い上がっていけなかったということになります。

しかし、安禄山が反乱を起こした後期になるとその仕組みもしだいに変わってきます。いわゆる実力主義の時代がやってくるんですね。

役人になるにも試験を受けて、その試験を合格しなければならない時代が始まります。それが唐の次、宋という時代になるともっと普遍的に広がっていき、科挙が行われるようになったのです。

また、科挙に合格して有力な役人になった人の子供は、ある程度恩恵が与えられることになりますが、所詮それで終わっていきます。

つまり、特定の家柄が永遠に栄えるということがなくなっていくんです。絶えず新しい家が出てきて国の役人になっていく、そのような大きな変化の時代の出発点が唐、とくにその後半期だったと思います。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:ありがとうございます。専売制に対する反乱というのは日本史でも聞き覚えがある話でした。実際、どの国でもこういった流れはある程度共通しているものなのでしょうか?

森部教授:どうなんでしょう。やはり国によって民族性が違うので、一概には言えないと思います。例えば、中国の場合だと爆発力の規模やパワーが日本に比べて格段に大きく強いと思います。

日本の戦国時代の一向宗の「反乱」を例にあげるなら、たとえば石川県で立ちあがった民衆が、富山、長野、山梨をへて東京へいたり、そこから東海道をのぼって京の都に攻めこむ、というものはないと思います。

一方、唐を滅ぼしたのは、今の山東省で反乱をおこした民衆たちでした。彼らは中国大陸を南下し、唐の南の広州というところまでたどり着きます。だいたい、山東省から広州まで、直線距離で1500㎞くらいあります。そこから再び北上し、都の長安を目指して移動するんです。

しかも、彼らは当初は唐を滅ぼすことを目的にはしないんです。はじめは荒らしまくってどんどん移動していきます。広州までたどりついた時、そこではじめて、唐朝を倒して自分たちで政治を取ろうという目的を見つけ、都の長安へ進軍することになります。

つまり、彼らはすごく流動する人たちだったのです。そういう人々のことを流賊と言いますが、彼らは中国の反乱の特徴の一つとして挙げられています。 おそらく、日本やヨーロッパの反乱でもこんなに大規模な動きはしないと思うんです。

中国はそのぐらいの移動距離で人が動いていくという特徴があります。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:規模が全く違うというのは驚きました。

よく「歴史は繰り返す」と言われますが、実際歴史を学ぶことによって未来の社会がどのように変化していくかを予測することは可能なのでしょうか?

森部教授:結論から言うと難しいです。しかし、非常に大きな歴史の流れというのは見えると思います。

歴史を遡って、世界各地の人々が、それぞれの居住地で現在につながる古典的文化や文明を作り上げていく時代を一番古い時代とすると、その頃の世界は、それぞれの文明圏では相互の交流が少なく、バラバラに文明圏が存在していたと考えた方が良いでしょう。

例えば、中国では、黄河流域の中下流域で文字が誕生し、そしてその文字は今我々が使っている漢字というものに洗練されていきました。

それと同時に中国ではいろんな思想が生まれますが、東アジアに最も影響を与えた儒教という思想が確立し、その思想は漢字によって書物として残されました。こうして中国では、漢字と儒教が組み合わさった古典的な文化が作りだされ、それが東アジアに広まっていくわけです。

こういった古典的な文化というのは、ヨーロッパや西アジア、インドなどユーラシア大陸各地でも独自に形成されてきました。これが世界史の第一段階だと思います。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:確かに、文字の発明と文明の誕生は密接な関係にあると思います。

森部教授:こういった文化が形成されていった後には、遊牧民たちが動き始めるようになりました。そのきっかけは気候変動による小氷河期の到来だったといわれています。

この遊牧民が、農業生産が比較的安定している農耕圏に移動すると、そこで農耕民とぶつかり合い、対立から共存、やがて融合といったプロセスを経て新しい文化が作りだされます。同時に、騎馬遊牧民たちはユーラシア大陸を東から西へ移動し、今までバラバラに発達していた文明が繋がり始めていくようになったのです。これが世界史の第二段階と考えて良いでしょう。

この結果、ユーラシアが一つにまとまって、チンギス・ハンによる大モンゴル帝国が誕生します。その後、モンゴル帝国は解体されますが、今度は西ヨーロッパの人々が航海技術を身に着けて、活動するようになっていきます。

その活動の一環として、彼らは今のアメリカ大陸に進出し、そこで産出された銀をユーラシア大陸に持ち込み、銀を基調とする経済圏を成立させていきます。その結果、ユーラシア大陸とアメリカ大陸とが結びつき、銀を基調とする経済圏がアメリカも含めて全世界で確立し、地球一体化の現在の世界に繋がっていくことになるのです。

では、今我々がどこに立っているのかというと、地球一体化が進みつつある時点だと思います。銀はもう使っていませんし、政治もまだ分断したままですが、経済はかなり結びついていますよね。

あるいは、インターネットなんかを見れば、世界中どこでも一つになっています。そういうことを考えると、間違いなく世界一体化は進んでいて、最終的には一つの国にまとまるのではないかという想像ができます。

もちろんそれは相当先ですし、クリアしなければならない問題、宗教や民族の対立もあります。しかし、歴史の流れから見れば一つにまとまるのではないかと、私個人は思っているのです。

歴史を学ぶ面白さや学ぶ際に必要な視点とは?

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:ここまでいろいろなお話を伺ってきましたが、実際大学で歴史学を学ぶことによって得られる教訓や面白さというと、どんなことが挙げられるのでしょうか?

森部教授:そうですね。私個人としては歴史学を学ぶ上で、あまり「教訓」というものは感じません。よく「戦争を二度と起こしてはいけない」ということを、歴史の中から学ぶと言われることがありますが、私が感じるのは歴史の面白さのほうです。

例えば、一般の方が歴史を知る方法としては、一般向けに書かれた書籍や教科書、あるいは司馬遼太郎や塩野七生などの小説があると思います。実際、それは面白いけれども塩野七生の本には塩野七生のバイアスがかかっているわけですよね。

あるいは、一般向けの本で「○○という事件が起こりました。その事件は✕✕✕というものでした」という風に書いていることがあります。確かに事実としては、ある事件が起き、その事件の内容が、その本に書かれている通りなのかもしれませんが、それを書いた人が意図的にその事件に関する何かを書いていない可能性はゼロとは言えません。

そうすると、やっぱり自分自身の目で確かめたくなるじゃないですか。

「その事件の全容は、本当はどうなのか」を知るために、自分で生の情報を直接見て、そこでその事件の本当の姿を知ること、他人の目を介さず、自分自身の目で事実を確認すること、これがまず歴史を学ぶ面白さだと思います。

また、世間にあふれている様々な情報も真偽が分からないものがたくさんあります。しかし、歴史を学ぶことを通じて本当の姿を知るノウハウを身に着けていれば、記事に書いてあることをそのまま鵜呑みにするスタンスが、非常に危ういことに気づくと思うんです。

それが歴史を学ぶことであり、人文科学の学問の基本の一つであると思います。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:確かに、ネットなどで得た情報を鵜呑みにするのは非常に危険だと思います。しかし、ノウハウを身に着けることも簡単ではないですよね。

本当の姿を知るノウハウを身に着けるために、大学生がチャレンジすべきことというのはあるのでしょうか?

森部教授:私は外国史を専攻しているので、それを踏まえて言えば、やはり、留学は絶対にしてほしいです。自分が研究対象とする国、地域の言葉を身に着けることがスタートだと思うんですよね。

また、新しい時代、近代や現代の歴史の研究なら今使われている言語、英語をはじめとする欧米諸語や、中国語などで通用しますが、古い時代になると古い時代の言語、例えば古い中国語(いわゆる漢文)、ラテン語、前近代のペルシ語など、現代語とは少し、あるいは大きく異なる言語を読む能力がまた必要になってきます。

大変だとは思いますが、それができないと生の情報を自分の目でチェックすることはできません。

多くの人には、自分が好きな国、興味のある国があると思うので、まずはそこに行ってその国の言語を身に着け、生でその国のことを体験してほしいです。

私も大学時代から中国に行き続けていますが、いつ行っても新しい発見はありますし、新しい言葉もどんどん生み出されていて、常に勉強の連続です。一生つきあうためにも、ぜひ留学にチャレンジしてほしいと思います。

一般社団法人日本スポーツ広告協会編集部:ありがとうございます。やはり、教科書で見るだけでは分からないところというのは多いのだろうと思います。

最後に、これから大学生になる方に向けてメッセージをいただけますか?

森部教授:歴史は過去のことを研究するものですが、根本的に大切なのは過去の人間の行動を分析することだと思います。研究のテーマとして戦争の話などがよく挙げられますが、ご飯の食べ方でも、あるいは服装でも良いんです。

今から2000年前の人は、明らかに今の我々と違う行動をしています。

学ぶ中で「何でこの人はこういう行動をするんだろう?」ということを観察し続けているうちに、「自分はなぜそういう行動をしないのだろう」「1000年前の人が取った行動を今再現したらどういう意味になるのだろう」と自分を見つめ直すきっかけが生まれるはずです。

現代の人々にとって今の日本、今の世界というのは見えにくいものだと思います。しかし、過去は現在に比べて見やすいものです。

実際、過去を見ることによってそれが跳ね返り、今の世界が見やすくなるとも言われています。 この境地に達するのは難しいですが、少なくとも大学での歴史、歴史を含めた人文学に関心がある方は、こういった点を意識してもらえたら良いかなと思います。

2024年4月5日 記事公開

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